光の中に立っていてね

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目覚めは悪くはなかった。

いつも通りの朝、遅刻。

寝ている間、夢は見なかった。

現実では夢だけを見ていた。

その夢も終わりを告げただの日常だけが頑として押し付けられる。

 

公式発表後のラジオでの生音声。

 

「こんばんは。平手友梨奈です。」

 

彼女の声が録音された皮肉な程に明るいジングルのあとの挨拶。

そこに欅坂46という枕詞はなかった。

 

仮に、欅坂46の最盛期を21人体制期とするならば、やはりそれは仮初の夢の時間で永遠とは程遠いものであった。

 

夢から醒めた時にはもう一度同じ夢を見ようとしてもそれは単に記憶の追体験に過ぎず、夢にはもう誰一人として出てこないのである。

 

メンバー2人の卒業、1人の脱退、そして活動休止。

今までにない絶望だった。

え?これからどうするの?

初めに認識できた感情には全て疑問符が付されていた。

 

一夜明けてもTLは苦しみや悔しさやるせない気持ちで溢れていた。

不思議と客観視している自分に気づいて己の非情さに落胆することも無く、これが現実で受け入れるしかないと勝手に自分の中で感情を整頓してまた日常に戻る。

体調を崩せば、メンバーを思って涙を流せば、学校や仕事を休めば、それが推しメンへの愛の絶対指標になるとは思わないが、時にそれは羨ましくもあった。

 

最後の最後までそうだった。

何もわからない。

わからないことだらけだ。

欅坂46は何と戦ってきたのか。

 

彼女たちのデビューは衝撃のものであった。

「これまでにないアイドル像」

「アイドルの既成概念を壊した」

壊した、でその後は?

 

乃木坂46姉妹グループとしてデビューした欅坂46は反抗的で刺激的な姿勢を殊更評価され肉付けされていった。

 

その後、周囲から期待されたものは想像に難くなかった。

 

大人に与えられた歌詞を大人に着せられた衣装で大人に決められたポジションと振り付けで楽曲を披露する。

一方で、握手会やブログ上ではファンにニコニコと笑顔で対応しバラエティでは積極的な姿勢を求められる。

これ程わかりやすい矛盾はない。

 

その歌詞は本当に彼女たちの感情を代弁するものであっただろうか。

 

受け取る側はその歌詞が歌い手の心境を表現しているかのように錯覚する。

あまつさえ期待さえして、まるでそうであるべきかのように語りさえする。

歌詞だけが一人歩きし、それに随伴する形で周囲の環境は息苦しさを増していった。

普通の高校生であってはいけない。

悩み苦しみもがき続ける姿に感動したい。

「僕」であることを全うし、血を流して削って削って残ったものとは。

 

曲を出す度に歌番組に出演する度にイメージは型に嵌められ逃げ場を奪われていった。

目に見えて質量を失っていく。

それは失速や低迷と言うよりも弱体化や疲弊と表現されるべきで皮肉なことに、弱った少女たちの振り絞った力こそが無情にも人々の心に響き渡り、そうであるが故に感銘を与えられるものであるとも思えた。

 

不確定要素、儚さが核に据えられた歪な関係性が出来上がっていく。

 

時に隠したくなるような感情さえ「欅坂46」というアイドルとしてメディアによって具現化され神格化されていく。

避雷針をひとつ用意したところで、幾千万の天を覆い尽くす落雷の雨から欅坂を守ることなんて出来ないのは自明だった。

共感されたはずの歌詞に対して、結果的に求められた姿は如何なものであっただろうか。

昔みたいに笑わなくなったね。

もっとブログやメッセージをたくさん送ってほしい。

 

私たちは歌詞のメッセージに沿ったパフォーマンスをしてるだけなのに。

 

アイドルらしさの押しつけは良くない。

欅は欅。

その結果が「欅らしさ」の押しつけになってしまったのではないか。

 

乃木坂46で6度のセンターを経験した生駒里奈は「成長過程を見せるのもアイドルの仕事」と語った。

 

ただの消費者たる我々は提供されたものを受け入れ評価することしかできない。

推して知ることは許されず脚色や濁した言葉にすら正解を持ちえない。

 

平手友梨奈が初めて「表現できない」と周りに助けを求めた2017年のツアー。「初めて」。それまでに幾度もパフォーマンスをする場面があり、センターという重圧を背負い続けた最年少の少女が、だ。

「すごい勇気がいったけど。」

なぜ?

 

メンバーが悩み落ち込む度に突き付けられる己の無力感。虚無感。

なにかしてあげたいけど握手をとることもレターを送ることも、メンバーがそれを望んでいるかという問いにさえ、遂に答えを出すことは出来なかった。

 

希望的観測だとしても仲良い姿やふと零したひとつの笑みで幸せを貰ってた。

弱音が聞きたかった。

笑わないアイドルを否定したかった。

もっと会って感謝を伝えたかった。

 

本当にわからないことだらけだった。

欅坂は苦しんでいる。

アイドルの口から何を言っても信じて貰えないと口を閉ざし、惹かれるほどに力を増して反発し、理解しようと歩み寄れば気味が悪いと心を閉ざされたような気さえした。

 

人間の手にする身体は一人につき一つであり、持ち合わせる時間軸もまた一つである。

時間の有限性と闘っていると言うよりは淡々と蝕まれていく感じに近い。

 

「いい青春が送れない可能性もある」

 

今回の発表で一番に思い浮かんだシーンが坂道合同オーディションのCMだった。

 

オタクが捧げた4年間は、メンバー自身の人生4年分を捧げた4年間に他ならなかった。

 

時として確信した正義は悪となり他人を追い詰める。

 

スペイベに、握手券に、公式アプリに課金してる。メンバーと同じものを身につけたい。

払った費用に相応の対価を求めることが間違いであるはずがないのだが、

笑顔でいて欲しい、

でも不協和音の欅も好き、

歌番組で元気な姿が見たい、

これが他ならぬ価値観の押しつけで、あるいは応援の形そのものが彼女たちを追い詰めるものだったとしたら。

断じてそうであって欲しくはないのだが。

 

卒業、脱退は痛嘆からのカタルシス足り得るのか。

 

「君らしく生きていく自由」

 

人生において選ぶ選択よりも捨てる選択の方がずっと多くて遥かに難しい。

アイドルとしての人生は明らかに後者の選択に寄っていて、文字通りアイドル人生以外の青春を全て手放す選択だ。

 

人生における幸せとは。

お金があってある程度の地位について容姿に恵まれれば幸せなのか。

それは手段であって目的ではない、と思う。

人生においての幸せは生き方の選択肢を多く持つことだと思う。選択する上で必要となるものが経済力や権力であって、それはあくまで選択肢を増やすための手段に過ぎない。

 

では、アイドルという人生に選択肢はいくつ許されているだろう。

卒業という選択は絶対的に周囲から反対される選択であり、それがアイドルである以上避けられない運命であるとしても俄には受け入れて貰えないものであろう。

 

卒業発表後のブログに将来への希望を示唆するような前向きな言葉があっただろうか。

 

残されたメンバーが苦しい思いを強いられる。これほど残酷なものはなく決してあってはならないことだと信じたい。

公式の発表とメンバー達が真実を知った時間にすら時差は存在していて、そのことに気付くのはいつだってある程度の批判が終わった後だと決まっている。

最後くらいはいっぱいの拍手でもって、余りある感謝の言葉たちで埋め尽くしてあげたかった。

 

結ぶよりも解く方が遥かに簡単であっけない。真理に目を背け続けた報いなのかもしれない。

 

止まってた時間は再び動き出し、

不平等な時間だけが平等に流れ続ける。

 

その針は明るい未来を刻む中途にあるのか。

それとも終焉へのカウントダウンなのか。

 

時はとまっていない世界にいる。