アリさんごめんなさい

 

 

小学一年生の昼休み、友達3人でアリの巣に水を注いでアリを殺したことがある。その後の掃除時間に担任に呼び出されてこっぴどく叱られた。「この前の道徳の授業で何を学んだの!」みたいな。命の大切さ的なものを諭されているうちに酷いことをしてしまったことに気づいて「自分がそんなことするはずない」と思うようになった。友達の一人がそんなことやってないと言い訳を始めると、本当にやってない気がしてきて、「やってもないことでなんで怒られなくちゃならないんだ」と涙が溢れた。マジでやばいよね。三人ともやってないということで先生には許されたけどなんかすごい気に食わなかった。

 


たとえば、芸能ニュースや政治関連の記事に対して、誰かが得意気な物言いで正解"ぽい"ことをいの一番に叫んだとする。そしたらその”ぽい”発言が正解として扱われる構図が出来上がって、その後にはその意見への同調や追従した発言でちょっとずつ正解が作り上げられていく。反論や少しでも違う意見は穿った見方として捉えられ、排斥され、大きな声の中に埋もれていく。この時、当事者自身の真偽性みたいなものは全くと言っていいほど重要視されず、ぽい憶測で話が進められ、本当に知りたい真実の部分は有耶無耶にされる。だってみんな信じたいものを信じて見たくないものは見ないようにしてるから。どうせ正解なんて誰にもわかんないし、空気読めよ。もし間違ってても誰かがまた新しい正解を考えてくれるし。全員で力を合わせてこれが正解だって声をかけ合うことで、総意が個人の本心へと変わっていく。あいつが浮気したせいでかなちゃんがキレて振ったらしいよみたいな感じ。楽しいよな。すげーわかる。

 


一番に言い訳を考えついた正義のヒーローがいたおかげで俺は怒られずに済んだし、結局は本心が出来上がる前に綺麗な正解を自分の正義としてあてがったおかげで、誰も傷つかずに済んだんだよな。アリさんは死んじゃったけど、俺たちに正義があるんだからしょうがなかったよね。バカみたい。